マイケル・マーカス
害虫被害は二度起こらなかった
マイケル・マーカスは、大手証券会社の商品調査アナリストとしてこの道に入ったが、彼のトレードに対する興味はサラリーをもらって働くことでは飽き足らず、いつしかトレードを本業とするようになっていた。しばらくの間フロア・トレーダーとして過ごした彼は、プロのトレーダーを雇って自社の資金を運用している投資会社、コモディティズ・コーポレーションで働き始めた。そこで最も優秀なトレーダーとなった彼は、数年の間で他のすべてのトレーダーが稼ぐ額を合わせたものが彼ひとりの稼ぐ額におよばないほどになっていた。なんとほぼ10年間で、彼は彼のファンドを2500倍にするという信じられないような成績を残したのである。最終的に彼はトレーダーとなり、大成功して西海岸へ越していった。
インタビューで彼に会ったのは、ほぼ7年ぶりのことだった。インタビューは南カリフォリニアにあるプライベート・ビーチが見下ろせる丘の上に建つ彼の自宅で行われた。その家には非常に大きな門(私を車で案内してくれた彼のアシスタントは”驚異の門”と呼んでいた)があり、それはまるで機甲師団の攻撃でも食い止めるために作られたような門だった。
一見見たときは、彼はよそよそしいというよりも、ほとんど内向的な感じだった。その彼の静かな性格が、彼がフロア・トレーダーとしては短命だったと語っていたことの裏付けでもあるかのように思えた。しかし、彼の過去のトレードのことに話題が移ると、まるで生き返ったようになった。最初のわれわれの話題は、彼がトレードを始めて間もない頃の最も楽しかった「ジェット・コースター」のような日々のことから始まった。
ブルース・コフナー
国際派トレーダー
今日、ブルース・コフナーは、為替のインターバンク市場および通貨先物市場における、世界でも屈指のトレーダーであると言えよう。1987年1年間だけで、彼自身と彼の運用するファンドの投資家に3億ドルを超える利益をもたらした。また過去10年間を振り返ると、年率87%という信じられないような成績を収めている。もし1978年に彼に2000ドル預けていたら、10年後には100万ドルになって返ってきたという計算である。
コフナーは、何十億という巨大なポジションを動かすトレーダーの典型的なイメージとはほど遠く、その鋭い知性と気取りのないしぐさは、投機色の強い通貨市場のジャイアント・トレーダーというより大学教授を思わせた。実際に、彼は学者としてスタートしている。
彼は気に入った職を探していくうちに、次第に金融市場に興味を持つようになっていた。1970年の半頃であった。彼の経済や政治科学に関する知識が、世界を分析してトレードするのに最適であると考えられたし、またそれが何とも魅力的に感じられたのである。それからほど丸1年、彼は市場について、経済について勉強することに没頭した。手にしたものはほとんど全てを読み漁った。
彼が最も熱心に勉強したのは、金利についての知識であった。彼が当初金利先物をトレードしたのも、金利市場について勉強していたからである。当時金利先物はそれほど洗練されている市場とはいえず、今であったらすぐアービトラージャーが入ってくるような価格の歪みがある程度の期間にわたって存在していた。
彼の発見したアノマリーの一つは、異なる限月間のスプレッド取引だった。先物市場ではあらかじめ決められたいくつかの限月(例:3月、6月、9月、12月)が上場されており、通常の経済活動においては、期日の短い限月(例えば3月)は期日の遠い限月(例えば6月)より高い価格(低い利回り)で取引されているのが理論上正しい。期近限月により近いほど、二つの限月間のスプレッドはそのような関係を顕著に維持していたが、より期先になるにつれて、限月間のスプレッドがゼロに近くなっていることを彼は発見した。そこで期先の二つのスプレッドは広がると予想してある期先限月を買って、さらにその先の限月を売ったのが、彼の初めてのトレードだった。
伝説の引退者
リチャード・デニスは1960年代後半に取引所のフロアでランナーとして安月給で働いていたが、その時にコモディティのトレードに興味を持ち始めた。1970年の夏、彼は自己勘定でトレードをしていくことを決意し家族から1600ドルの資金を借り、ミッド・アメリカ取引所の会員権を購入した。
ミッド・アメリカ取引所は他の主要な取引所より1枚当たりの契約金額が小さく、いわばマイナー・リーグの取引所だった。したがって、ミッド・アメリカ取引所には小規模のヘッジャーや普通の1取引単位がトレードの単位としては大きすぎるスペキュレーターたちの売買が集まってくる傾向がある。リスクにさらすことのできる資金の小さい駆け出しのトレーダーのリチャードには、ミッド・アメリカ取引所はぴったりだったし、彼の持っている資金で会員権を購入できる取引所はここだけだった。
会員権の取得に1200ドルかかり、彼にはわずか400ドルがトレードの資金として残っただけだった。信じられないかもしれないが、彼はこの少ない資金を徐々に増やしていき、2億ドル近くにしてしまった。彼の父親の大謙遜の弁を借りると、「リッチーは400ドルの金を非常にうまく運用したとだけ言っておこう」というわけである。
デニスは長期間をとると比類ない成功を収めてきたが、その間いく度か劇的な敗北にも耐えてきた。私がインタビューしたとき、彼はそんなどん底へ向かっているただ中だった。1987年後半から1988年前半にかけてリチャードが運用した公開ファンドのいくつかは、トレードの休止を余儀なくされる、50%のロスカット・ポイントに達するほどの損失を出した。彼個人のアカウントも似たような成績を残している。「私個人の売買もこれらの結果と同様に莫大な損失を出しました」と彼は投資家への手紙の中で表明している。
たぶんリチャードのトレーダーとして最も印象的な特徴は、このような困難な状況においても精神的な影響をほとんど受けずに耐えうるということだろう。彼はこのようにときどき起こる莫大な損をゲームの一部と受け入れることを身につけているようだ。彼は自分の基本的なトレード戦略に従っていれば、やがて結果は改善してくると信じているので、そのような時期においても自信は揺るぎないのだ。初めはわからなかったが、インタビューをしている時の彼のムードと自信から、彼は富を失ったのではなく、小さな富を築いたのだということを知った。
この企画において、インタビューの候補者リストを作成していく上で、リチャード・デニスの名前は不可欠であった。彼は我々の時代のトレードの伝説の中で真っ先にでてくる一人である。この本でインタビューを受けた他のトレーダーたちには、「私と彼では土俵が違う」と言われるようなトレーダーなのだ。
このインタビュー後まもなくして、デニスはトレードから引退して政治的関心事に専念することを表明した。一体、デニスはもうトレードをしないのだろうか。そうかもしれないが、決めてかからないほうがよいだろう。(その後、リチャード・デニスはトレード再開し、同じような収益を上げている)
←ポール・チューダー・ジョーンズ
攻撃的なトレードの芸術
1987年10月、世界の株式市場は、1929年に匹敵する暴落に見舞われ、多くの投資家にとって絶望的な月となった。その同じ月、ポール・チューダー・ジョーンズによって運用されているチューダー先物ファンドは62%という驚異的なリターンを記録した。ジョーンズはずっと一匹狼のトレーダーである。彼のトレードのスタイルは独特であり、他の資金運用者の成績とは全く相関がない。そして最も重要なことは、誰もが不可能と思ってきたことを彼は成し遂げたということだろう。5年連続3桁のリターンを達成し、しかもその間にパフォーマンスを悪化させたことはわずかしかない(厳密に言うと、1986年についてはポールのファンドは99.2%のリターンしか上げられなかった)。
ジョーンズは彼が挑んだ大きな冒険にすべて成功を収めてきた。彼はブローカーとしてこの業界でのスタートをきり、2年目には100万ドル以上の手数料を上げた。
1980年の秋、ジョーンズはニューヨーク綿花取引所で個人のフロア・トレーダーとなった。ここでも2、3年のうちに数百万ドルを稼ぎ、華々しい成功を収めた。
しかし、本当に素晴らしいのは、彼の儲けの大きさではなく、そのパフォーマンスの安定性である。フロア・トレーダーとしての3年半のうち、損を出したのは1カ月だけだった。
1984年、退屈さとピット・トレーダーの職業病であるやがて声が出なくなるという恐怖から、再び成功している仕事を捨てて、資金運用(マネー・マネジメント)という新しい冒険に乗り出した。1984年9月、運用資金150万ドルのチューダー先物ファンドを設定した。1988年10月末には、当初このファンドに投資された1000ドルは1万7482ドルになり、彼の運用する資金総額は、3億3000万ドルへと増加した。その後も運用資金の増加は見込めたが、1987年10月以降、ジョーンズは新規資金の受け入れをやめ、現金の償還を始めた。
ジョーンズが信じるように、人にサイクルというものがあるのなら、彼はまた職業を変えるだろう。次に彼に何ができるかは想像もつかない。
ジョーンズは二面性を持つ人間の典型的な例だ。個人的な会話では彼は非常にリラックスしているがトレーダーとしての彼は訓練のときの鬼軍曹のとうな激しさをもって、注文を叫ぶ。一般に知られている彼のイメージは尊大で自己中心的なトレーダーだが、一対一で話をすると気のおけない謙遜な人間だ。ジョーンズはこの仕事の最初の師である伝説の綿花トレーダー、エリ・チュリスに強い影響を受け、相場でどんなにやられていても、たじろぎもせず、訪問者と丁寧にくつろいだ会話のできるようになったのだろう。
ゲーリー・ビールフェルド
そうさ、彼はビオリアに住みながらトレードしているんだ
何年間もの間、先物市場、特に世界一の規模を誇るTボンド先物市場におけるメジャープレーヤーの一員として、BLHという名前を耳にしてきた。私は、BLHとは巨大なトレーディング会社で、国内の最高のトレーダーたちを集めた会社だと思っていた。しかし、今回、BLHとは、ゲーリー・ビールフェルドという個人そのものなのだと初めて知った。
ゲーリー・ビールフェルドとは何者だろう? Tボンド先物市場で大きな力を持ち、ウォール街の会社とわたり合えるほどの資本をどうやって築いたのだろう? ビールフェルドは25年前、ほんの1000ドルの資金でトレードを始めた。最初、彼の資金は非常に小さかったので、当時農産物価がかなり不振であった中でも、最も単価の安い先物だったトウモロコシでしかトレードを始められなかった。しかし、この極端に控え目なスタートから、彼はびっくりするようなサイズで、トレードするようになっていくのである。
彼はどうやったのだろう? ビールフェルドは分散ということをしない。彼はトレードの哲学は、一つの分野においてエキスパートになることなのだ。彼は長年にわたり大豆のトレードに集中し、それ以外は穀物関連商品をいくらかトレードする程度だった。
1965年のこと、彼は苦心しながらも、1000ドルの資金を1万ドルに増やしていたが、大学時代の農業経済の教授と、彼の大豆のファンダメンタル分析が偶然一致して、大豆価格は上がると確信した。そして、そのポジションを手仕舞う頃には彼の資金は2倍になっていた。そのトレードがフルタイムのトレーダーになろうという彼の目標への出発点となったのである。
1983年の大豆相場での失敗で、彼は、Tボンド市場へ転向したが、それはちょうどTボンドの相場が大きく底打ちした時期と一致していた。彼は非常に強気であり、タイミングよく大きなロング・ポジションを積み上げることができた。Tボンドの相場が1984年の中盤から1986年の初めにかけて暴騰した時、ビールフェルドは大きなポジションをとり、多大な利益を上げた。このTボンドのロング・ポジションがビールフェルドの最高のトレードとなり、彼を次のステップへと飛躍させたのである。つまりこれが、トウモロコシ先物1枚のトレーダーが、いかにして名だたる機関投資家たちに伍するTボンド先物のトレーダーになったかという話なのである。
エド・スィコータ
皆欲しいものを手に入れる
一般の人たちにだけでなく金融業界の中でも全く知られていないことだが、エド・スィコータの業績は、明らかに我々の時代の最高のトレーダーの一人と位置づけられるものである。1970年代の初頭に、スィコータは大手証券会社に就職した。彼は先物市場で顧客の資金を運用する、最初の営業用コンピュータ・トレーディング・システムを考案し、開発した。彼のシステムのパフォーマンスは非常に優れたものだったが、経営陣による干渉と余計な思惑が大きな障害となった。この経験がスィコータが独立するきっかけとなった。
その後何年か、スィコータは彼のシステムをいくつかの口座と彼自身のトレードに使った。その間スィコータが運用した口座は、実に驚くべき利益率を記録した。例えば、1988年中頃には、1972年に5000ドルで始めた顧客の口座は25万%を超えるまでになっていた(その期間引き出されたお金を含めて計算すれば、理論的には数百万%になっていた)。私の知る限りでは、同じ期間における運用でこの記録を上回った者はいない。
スィコータは、タホ湖の畔に面した彼の家の中にあるオフィスで仕事をしていた。私のインタビューした他のトレーダーとは対照的に、スィコータの机には、価格を映し出す様々なモニターは一つもなかった。彼のトレードは、翌日のシグナルを出すためコンピューターのプログラムを数分間走らせるだけで事足りた。
スィコータと会話しながら、私には変わった組み合わせに思えたが、彼が強烈な知性と繊細さの両方を兼ね備えていることに強く衝撃を受けた。彼は独特な視点で物事をみていた。ある時、彼は分析のテクニックについて話をしていると、まるで物事を極めた科学者のようになり、彼がデザインした数多くのプログラムの一つを使って、三次元のグラフをスクリーンに映し出して見せたりするのである。しかし、一度話題がトレードの心理学へと移ると、彼は人間の行動について非常に鋭い洞察力を示すのである。
事実、近頃スィコータは心理学の分野に大変熱心になっている。彼の人生にとって、心理学とその応用により人々の悩みを解決していくことの方が、市場の分析やトレードより重要になってきているように私には思えた。スィコータはこのように対比すること自体不自然なことだと考えているかもしれない。彼にとってトレードと心理学は一つであり、同じものだろう。
スィコータの成功はトレードを超えたものだった。彼は人生に意義を見出し、自分が欲した通りの生活を送っている人間として、強く私の印象に残った。
ラリー・ハイト
リスクをにらんで
金融市場に対するラリー・ハイトの興味をかきたてたのは学生時代の専攻だった。しかし、彼がウォール街へたどりつくまでの道のりはモーゼがイスラエルの地へ至る道のりのような回り道だった。彼の青年時代のことを調べても、その青年が後に大成功を収めることになるという糸口はみつからない。まず、学業の方は惨澹たるものだった。そして、つまらない職を転々とし、最後は役者と映画の脚本家という二股をかけることになった。
ある日、ハイトはビートルズのマネージャであるブライアン・エプスタインに会い、「ロックのプロモーターっていうのは、最小の投資で大金持になれる可能性を秘めているんだ」と彼は独り言を言った。そして、いくつかのグループとレコードの契約を結んだが、どれもスターにはならなかった。ここでも彼はそれほど成功しなかったが、食べていくだけの稼ぎはあった。
そうこうしている間も、彼の本当の興味は金融市場にあったが、1968年、ついにその思いを遂げることになった。しかし、先物市場に憧れながらも、どうすればよいのか全くわからず、ひとまず株式のブローカーから始めた。数年後、彼はフルタイムの商品取引ブローカーとなった。
ハイトが、長期的なトレードで成功するために必要な要素が何であるかを確信し、最終的にはミント投資顧問を創設する第一歩を踏み出すまでに10年以上かかった。彼はそのトレード・アイデアが厳密な科学的テストを要することを悟った。彼は統計学の博士号をもつピーター・マシューズを当初は無報酬で共同経営者として迎え、その協力を得た。一年後、彼は防衛関係の電子メーカーで働いていたコンピューター・システムの設計者であるマイケル・デルマンを雇った。マシューズとデルマンも彼ら自身のアイデアを提供したがむしろ、実際はハイトのトレーディング手法が統計的に十分かを検証するのが彼らの仕事だった。ミントの成功はマシューズとデルマンなしでは考えられなかったとハイトは強調する。
ミントの目標は、最大限のリターンを狙うものではない。むしろハイトの哲学は厳しいリスク管理のもとで、最大限の安定収益を目指すものである。ミントが最も輝かしいのはこの点(リスクに対するリターン)である。1981年の取引開始時点から1988年の半ばまで、登録されているミントのファンドの平均年複利収益率は、30%以上である。しかし、その安定性こそが特筆すべきものである。毎年の収益率は最低でプラス13%、最高は60%の範囲に入っている。期間6カ月での最大損失は15%で、期間12カ月(暦年ではない)では1%以下である。
ミントの優れた運用成果を見れば、その運用資産が急速に拡大したのも驚くに値しない。1981年4月、200万ドルでトレードを開始し、現在では8億ドルを運用している。しかし、運用資産の増大がパフォーマンスに悪影響を与えたという事実は全くない。ミントは最終的に、20億ドル(先物ファンドとしては前例のない規模)でも運用可能だとハイトは信じている。
マイケル・スタインハルト
版権取得!!今冬出版予定!!『NO BULL』
特異な洞察力
マイケル・スタインハルトが株式市場に興味を持ったのは子供の頃で、彼の父がある株式を200株プレゼントしてくれたのがきっかけだった。他の子供たちは外で野球をして楽しんでいるというのに、十代から地元の証券会社に出入りし、大人たちと一緒にティッカー・テープを眺めていたと彼は述懐する。とても賢い生徒であったスタインハルトは、学業に精を出し、1960年、19歳のときにペンシルバニア大学ウォートン校を卒業した。スタインハルトはウォール街へ直行し、リサーチのアシスタントとして最初の職を得た。数年後、彼は金融ジャーナリストとリサーチ・アナリストとしての地位を固めた。1967年、優秀なアナリストとしての名声を得ていた彼は、2人のパートナーと一緒にスタインハルト・ファイン・バーコビッツ投資顧問を設立した。これはスタインハルト・パートナーズ投資顧問の前身である。
設立以来21年間、スタインハルトの会社は驚異的な運用成績を上げ続けている。その間、スタインハルト・パートナーズは年複利30%以上の収益率を上げている(利益に対する20%の成功報酬を控除した後でも、25%となる)。参考までに、同期間のS&P500指数は配当込みで年複利8.9%の収益率にしかなっていない。1967年の設立時に1000ドルの投資を行っていれば、1988年の春には成功報酬控除後で9万3000ドルになっていたことになる。同様に1000ドルをS&P500のバスケットに投資していたら6400ドルにしかなっていない。この賭けは驚きのほんの一部でしかない。スタインハルト・パートナーズは2年間だけ損失を出した年がある。ただし、両年ともその損失は成功報酬控除後で2%以下だった。
スタインハルトの優れたパフォーマンスは、多数のアプローチによって達成された。彼は長期の投資家であると同時に、短期のトレーダーでもある。また買いばかりでなく、カラ売りも好む。ベストの投資だと思えば、資金の大部分を財務省証券のようなものに振り向けることもある。
彼は会社のポートフォリオに日に何度も目を通す。スタインハルトはトレーダーたちに判断の自由を与えているが、彼がそのポジションを見てマズイと思ったときには、直ちに修正するように要求する。特に危ないと感じたときは、スタインハルト自身がトレーダーに代わったポジションを手じまってしまう。会社のポートフォリオをスタインハルトがあまりに厳しく精査し管理するため、仕えるには口うるさい男だという評判がたった。事実、多くのトレーダーがそれに耐えられず会社を辞めていった。スタインハルトの机は船の舳先のように湾曲している。それを見たあるジャーナリストが、彼にアハブ船長とあだ名をつけたのも無理はない。しかし、スタインハルトの厳しさは彼の仕事上の役割によるところが大きい。つまり、フットボールのコーチのように、多くのトレーダーをまとめていくためには厳しさは美徳なのかもしれない。
芸術的な銘柄選択
ウィリアム・オニールは根っからの楽天家であり、アメリカの経済システムおよびその可能性の強烈なファンである。「アメリカには毎年大きなチャンスがある。準備をして待ち、チャンスをとらえよ。小さなドングリが大きな樫の木になるのを目にするだろう。忍耐強く努力すれば何でもできる。やれるはずだ。成功へのあなたの決意が一番大事なのだ」とオニールは言う。
オニールは、みずからの言葉を地で行った伝統的なアメリカのサクセス・ストーリーの生きた証明だ。大恐慌時代にオクラホマに生まれ、テキサスで育った。そして、彼は投資家として大儲けし、ビジネスマンとしても大成功するという二重の幸運を手にした。
彼は1958年にヘイドン・ストーン・アンド・カンパニーという証券会社に就職して、金融界でのスタートをきった。ここで彼は初めリサーチを行ったが、それが彼の投資戦略の核心の構築へつながった。オニールのトレーディング方法は当初から目覚しい成果を上げた。
1962〜63年、3銘柄で構成される異例の組み合わせトレードで利益を積み上げた。それはコーベット株の売り、、クライスラー株とシンテックス株の買いであり、当初5000ドルだった資金を20万ドルに増やした。
1964年、そのお金でニューヨーク証券取引所の会員権を取得し、ウィリアム・オニール社という機関投資家を対象としたリサーチを専門とする証券会社を設立した。彼の会社のコンピューターによる株式市場の総合的情報提供はリーダー的存在で、現在米国内では最も評価の高い証券会社の一つである。ウィリアム・オニール社は500の主要な機関投資家と2万8000の個人が購読する『デイリー・グラフ』というチャート・サービスを行っている。同社のデータベースは7500銘柄のそれぞれについて120の統計値が整備されている。
1988年、彼は自分の考えを『株式投資で儲ける方法』(マグロウヒル社刊)という本にまとめた。この著書は明解かつ簡潔であり、優れた特別のトレードのアドバイスを提供している。その年、投資に関する本のベストセラーとなった。
オニールは様々なビジネスを手がけたが、それによって株式投資の達人としての彼のパフォーマンスは防げられることはなかった。過去10年間、オニールは株式投資で、平均で年率40%以上の利益を上げている。ウィリアム・オニール社は飾り気のない職場である。これほどゴミゴミしたオフィスを見たことがない。オニールは特別の存在にはならないでいる。最高経営責任者としては全く珍しいことだが、彼は他の二人の従業員と部屋を共有している。話が明瞭で、自信にあふれ、頑固だが、アメリカに対してとても強気だというのが私のオニールに対する印象であった。
デビット・ライアン
宝捜しのような株式投資
デビット・ライアンは低位株投資に価値を認めない。しかし、常にそうだというわけではない。彼は13歳の頃『ウォール・ストリート・ジャーナル』を見て1ドルの株を見つけてはしゃいでいたのを覚えている。彼は新聞を手にしたまま父に駆け寄り「1ドルあったらこの株買えるの」と尋ねた。彼の父はそういうわけにはいかないと言い、「株式投資をする前にはその会社についてよく調べなければいけない」と話した。
数日後、再び『ウォール・ストリート・ジャーナル』を見ていて、ライアンは、ビット・オー・ハニーやチャンキー・キャンディーを製造しているウォード・フード社の記事を見つけた。自分がたくさん食べているので、これこそ最高の投資だと思った。父親が彼のために口座を開設してくれ、彼はその株を10株買った。業績が良くなって株価が上がるよう、彼は友達みんなにキャンディーを買わせたのを覚えている。これがライアンの株式投資家としての経歴の公式なスタートであった。
1982年に大学を卒業すると、彼はオニールの会社に就職しようと決心した。彼は受け付けで、いかにオニールの仕事に興味があるかを説き、たとえ召し使いでもいいから入社したい旨を伝えた。
彼は採用され、わずか4年で、運用の成功が認められ、最年少の副社長となった。彼はポートフォリオ・マネジャーとして、また機関投資家向けの銘柄選択において、オニールの片腕としての地位を獲得した。
1985年に元スタンフォード大学教授のノーム・ザデーが主催する全米投資選手権株式部門で優勝して、彼は個人としての名声を得た。彼は161%という驚異的なリターンを上げた。翌1986年に参加したときは、前年には及ばなかったものの160%で2位となり、1年限りのフロックでないことを証明した。さらに1987年にも3ケタのリターンで優勝している。その3年間でのリターンは通算で、1379%と驚くべきものであった。
私のインタビューしたトレーダー達はみなトレードが大好きであるが、ライアンほどその興奮を強調した者はいない。ライアンにとっては、銘柄選択の過程全てが素晴らしい「宝捜し」のようなものだ。そして、彼は未だに、この仕事をして給料がもらえるなんて信じられないことだと思っている。
私のインタビューしたトレーダー達のオフィスは質素なものから豪華なものまで様々だったが、明らかにライアンのは最低だった。
チャンピントレーダー
トレードに関しては、マーティ・シュワルツは豊かな見解を持ち、かつ情熱に満ちている。この情熱の激しさは精神面で防御されていない部分が刺激された時(例えば、プログラム・トレーディング)に怒りに変わる。「相場の流れと共に」という彼の哲学とは関係ないが、実にこの怒りはトレーダーにとって有益な側面の一つだと彼は認める。彼によれば、相場は闘技場で、他のトレーダーは敵である。
私は仕事に対する彼の勤勉さにも驚いた。私が彼のオフィスに着いた時、彼は市場分析の仕事をしており、インタビューの最中にも彼は計算作業をしていた。その夜、私がいとましたときも彼の仕事は未だ終わっていなかった。疲れた様子だったが、終わるまでそのまま仕事を続けるに違いないと思った。彼は過去9年間、このように怠惰になることなく仕事をしてきた。
シュワルツは、10年間も負け続けた後、ついに極めて成功したプロフェッショナルなトレーダーになった。初めの頃、彼は収入のいい証券アナリストだったが、相場を張っていつも損をしていた。結局、彼はトレードの手法を変えることで、失敗の繰り返しから、安定した成果を残すようになった。彼はフル・タイムのトレーダーになった1979年以来、毎年非常に高い勝率を上げただけでなく、彼がもっている資産の3%以上の損を出した月は一度もなかった。
シュワルツは自宅にあるオフィスで一人でトレードをしており、人を雇っていないことを自慢している。このような孤独なトレーダーがいくら成功しても、普通はあまり名は知られないが、シュワルツは、スタンフォード大学の教授であるノーム・ザデー氏が主催する全米トレード選手権というコンテストによく参加したため、高い名声を獲得している。このコンテストでの彼の成績は毎年驚異的なものだった。彼が参加した期間4カ月の全米トレード選手権(通常当初資金は40万ドル)の10回のうち9回は、彼の儲けた金額が他のすべての参加者が儲けた額の合計よりも多かった。平均リターンは210%にも達している(残りの1回はトントンに近い結果だった)。また、彼が1回だけ参加した期間1年間のコンテストでは781%のリターンを記録している。彼はこれらのコンテストに出場し、世の中に自分がベスト・トレーダーであることをアピールする。リスク/リターン比で言えば、彼はまさにベスト・トレーダーであろう。
ジム・B・ロジャーズ Jr.
NEW!!『カウンターゲーム』
割安を買ってヒステリーを売る
ジム・ロジャースは、1968年にわずか600ドルで株式のトレードを始めた。1973年、パートナーのジョージ・ソロスとクォンタム・ファンドを設立した。クォンタム・ファンドは最高のパフォーマンスを上げたヘッジ・ファンドのひとつとなり、1980年、多少の財産を築いたロジャースは引退した。ロジャースの言う「引退」とは自らポートフォリオを運用することであり、そのために相当のリサーチが継続されている。また彼は引退後、コロンビア大学の修士課程で投資分野の講義も行っている。
私がロジャースにどうしてもインタビューをしたいと思った理由は2つある。一つは同時代で最も鋭い投資家であるという評判を聞いていたからだ。もう一つは、テレビや雑誌で見る彼のインタビューは常識破りだが、考え方は非常に明瞭だからだ。しかし、私はロジャースに面識がなかったため、優れたトレーダーたちをテーマに本の出版を準備しているのでインタビューに答えてほしいと手紙を書いた。その手紙に既に出版している私の先物市場の本を添え、「常識はさほど常識ではない」というボルテールの言葉とともに送った。
数日後、ロジャースから電話があり、本の礼を述べるとともに喜んでインタビューに応じると言ってきた。「しかし、私はあなたがインタビューしたいと思っている人間とは違うかもしれない。私は数年にわたって同じポジションを持ち続けることがある。もっと言えば。世界で最悪のトレーダーかもしれない。タイミングよくやったことなど一度もないんだ」と彼はことわった。私は偉大な投資家ではなく、偉大なトレーダーに興味があると手紙に書いたので、彼はその点を指摘したのだった。
私の定義では、「トレーダー」とは株式市場がどちらを向いているかその方向性に注意を向ける者であり「投資家」とは市場全体を上回る成績を上げられる銘柄を選択することに注力する者である。言い換えれば、投資家は常にロングであり、トレーダーは、ロングもショートもする。私はこの定義をロジャースに説明し、なお彼こそはインタビューを試みたい人物であると強調した。
マーク・ワインスタイン
高勝率のトレーダー
不動産ブローカーとしての短い経歴を経て、マーク・ワインスタインはプロのトレーダーとなった。トレードを始めた当初は、あまりの未熟さからカネを捨てるのも同然という有り様であった。その失敗の後、次のトレードのための資金を貯えながら、彼は猛烈に相場について勉強した。その後、一度失敗があるが、ワインスタインは極めて優秀なトレーダーとなったのである。彼は株式、株式オプション、株価指数先物、通貨、コモディティなど広範囲にわたり、徹底的にトレードした。その詳細について彼は語りたがらないが、様々な商品のすべてから利益を稼ぎ出してきたのは言うまでもない。
私は共通の友人を通して、マーク・ワインスタインと知り合った。彼は私のプロジェクトに興味を示したが、名前は伏せておきたいという気持ちから、自分のことは話したがらなかった。そして、「分かった、協力するよ。インタビューの予定を立てよう」と電話してきたかと思うと、翌日再び電話をしてきて、「やっぱり気が変わった。本に載るのは困る」というようなやりとりが幾度か続いた、そのたびに、長時間にわたって、インタビューをすることによるメリットとデメリットについて議論したのである。とうとう憤慨した私は、「マーク、我々はインタビューできるほどの時間をかけてこの議論をしているよ」と彼に言った。その後2カ月間その議論が絶えた後、この本に協力することに同意したトレーダーたちの水準に感動し、インタビューに応じる決意をした。
電話での会話を通じて、私はワインスタインがどんな会話においてもすぐに脱線する傾向があることに気がついていた。それはまさに彼の物事の考え方の特徴であり、一つの事柄から、それに関連する五つものことを考えてしまうのである。そこで私は、莫大な量の編集作業を避けるために、私の質問したことにだけ集中してくれるように頼んだ。確かに彼は意識して私の忠告を守ろうとしたようではあるが、それにもかかわらずインタビューは5時間にも及び、原稿にして200ページ分にもなってしまった。
ブライアン・ゲルバー
トレーダーになったブローカー
ブライアン・ゲルバーの経歴は、シカゴ・ボード・オブ・トレードのフロア・ブローカーとして、大手の取次業者の金融先物の注文をフロアで仲介することから始まった。ブローカーとして機関投資家へのアドバイスで成功した後、彼は自己勘定のトレードも始めた。Tボンド先物草創期において、ゲルバーは最も傑出したブローカーの一人として、またもっとも大きなローカルズの一人として、両方の意味でとび抜けていた。
1986年1月、ゲルバーは取次業者を通さず、顧客と直接の取引を開始した。また彼は、国債、その他の市場で現物、先物のトレードをしているトレーダー・グループを統括している。さらに彼はゲルバー・グループ。ゲルバー・マネジメント、ゲルバー・セキュリティーズといった一連の会社の社長でもある。これらの会社は精算業務、取次業務、投資顧問業務などを行っている。
ゲルバーのくつろいだ雰囲気は、その職業とはおよそかけ離れた感じがした。日々、数百万ドルのTボンドのポジションをトレードし、グループを統括をしている者に想像される緊張はなく、私の前にいる彼は、まるで楽しい休暇について語るように自分の仕事を語る男だった。
我々のミーティングは、取引時間と重なってしまったが、ゲルバーは、債券市場の動きにそれほど気を取られている様子はなかった。実際、彼はインタビューのためにトレーディング・デスクを離れて自分の個室にいるにもかかわらず、きわめてゆったりとした様子だった。「私はたぶん、ここにいた方がよいだろう」と彼が言った。明らかに、その言葉はその時点では相場の動きもなく、トレードのチャンスは少ないということを察知しているようだった。
本書でインタビューの予定をしている他のトレーダーについて尋ねられたので、私は、トニー・サリバのことを話した。彼は『サクセス』誌の直近号で特集された人物だ。ゲルバーからその雑誌を持っているかと尋ねられたので、私は、アタッシュケースから取り出し、彼に手渡した。1987年10月19日の株式大暴落の週のサリバの経験について書かれた記事の見出しを読み、彼はほほえんだ。「大勝利! 72時間で400万ドル」。冗談めかして彼は尋ねた。「私はあの日、20分間で400万ドル稼いだのに、なぜ雑誌で特集されないのかな」。彼は決して奢っているのではない。すべてとは言わないが、多くの偉大なトレーダーがあまり一般にその素顔を知られていない。彼の言葉はそういった事実を端的に物語っているのだ。
トム・ボールドウィン
恐れを知らぬピット・トレーダー
活発な先物市場のトレーディング・ピットは壮大な場所だ。大勢のトレーダーが目一杯の声で「買いだ」「売りだ」と叫びながらひしめき合っている。初めて見る者にとっては、この制度化された混沌が取引を執行する方法として、現実に効果的に機能しているということが不思議に思えるだろう。先物ピットの狂乱世界の中で、500人以上ものトレーダーを擁するTボンド先物ピットは、比類なき巨人として群を抜いている。そのピットはあまりに大きいため、ピットの一方の端で起こっていることが、しばしばもう一方の端ではわからないことがあるくらいだ。ほとんど誰に聞いても、トム・ボールドウィンはTボンド先物ピットにおける最大の個人の自己勘定トレーダーだとの答えが返ってくる。彼のトレードのサイズは非常に大きく、主要な機関投資家と同じ土俵で勝負している。1回に2000枚(Tボンドの額面にして2億ドル相当)の商いをすることも、そう珍しいことではない。1日の取引枚数が2万枚(Tボンドの額面にして20億ドル相当)を越える日もある。
ボールドウィンは今30代の前半であり、Tボンド先物のトレードを始めてから6年と経っていない。ボールドウィンはフロア・トレーディングの世界に入ったのは、成功よりも失敗がきっかけとなったようだ。1982年にボールドウィンはハム工場の製造責任者の仕事を辞め、トレードの経験は全くなしで、シカゴ商品取引所の会員権を借りた。元手はわずか2万5000ドルだった。この乏しい資金から、彼は会員権のリース料を毎月2000ドル以上支払わねばならず、さらに生活費のため少なくとも毎月もう1000ドルは必要だった。その上に、その頃彼の妻は妊娠していた。明らかにボールドウィンは、先物を安全にトレードするだけの資金力はなかった。
彼が攻撃的にリスクに挑む姿勢は彼の成功の重要な要素の一つだ。彼は最初から利益を上げた。彼は1年と経たないうちに億万長者となり、後戻りすることなく前進した。彼はどれだけ稼いだかを語るのは拒んだが、控え目に見積っても3000万ドルは下らないだろう。本当はそれよりはるかに大きな数字になるかもしれない。私はボールドウィンとのインタビューが本書の企画には不可欠だと考えていた。彼は世界一の先物市場における、最も成功したフロア・トレーダーとして卓越していたからだ。
私は市場がクローズして数分過ぎた頃に、彼のオフィスに着いた。さらに数分後に、ボールドウィンはオフィスに戻ってきた。彼は新しいオフィスに移ったばかりだったため家具などはまだ運ばれておらず、インタビューは窓枠に腰を掛けて行われた。ボールドウィンの態度は素っ気なくも愛想よくもなかった。気が乗らないというのがおそらく最も適した表現だろう。私がほんのわずかの間でも次の質問を躊躇していたら、彼は行ってしまういそうな印象を受けた。
←トニー・サリバ
“一枚野郎”の大勝利
トニー・サリバがシカゴ・オプション取引所に入ったのは、1978年だった。半年間クラークを勤めたあと、サリバは自らトレードする準備を整えた。5万ドル援助してくれるトレーダーをみつけ、まあまあのスタートを切ったが、ほとんど自滅した。しかし、彼はトレーディング手法を変えることで、瀕死の状態から脱出し、成功したトレーダーになった。
サリバのトレードのスタイルは、まれにあるトレーディングのチャンスをしっかりとつかむため、毎日泥水の中で少ずつ歩みを進めているようなものだ。彼の富の大部分っはそういった出来事によってもたらされた。このインタビューでは、テレダイン株の暴騰と1987年の株式市場の大暴落の二つの例が挙げられている。
サリバのトレードの成績で印象深いのは、彼が記録したいくつかの驚くべき利益というよりは、それらをもたらした信じがたいほどリスク管理のゆきとどいたトレーディング手法である。実は彼は一時、連続して70カ月、10万ドルを超える利益を出したことがある。数回の大当たりだけで億万長者になったトレーダーはそういない。そして、その利益を保ち続けられる者の数はさらに少ない。偶然による巨額の利益と安定したトレーディングの利益の両方を自慢できるトレーダーはまれにしかいないのだ。
サリバのようにトレードで成功するためにはかなりの努力がいる。にもかかわらず、彼は不動産投資、ソフトウェア会社、レストラン・チェーンなど幅広く他の事業も経営している。本業以外はのビジネスはさほど儲かっていないが、彼の多様性に対する要求を満足させている。
このインタビューが行われた時期、サリバは生涯で最も重要なビジネスを手掛けようとしていた。大きなトレーディング会社を設立するために、あるフランスの銀行と1億ドルの資金援助の交渉をしていた。彼の目的は優れたトレーダーの発掘とその訓練にある。
サリバと話をしていると、5分もしないうちに古くからの友人のような気がしてくる。彼は心から人を愛している。
←Dr.ヴァン・K・シャープ
ヴァン・K・シャープ博士は1975年にオクラホマ大学のヘルス・サイエンス・センターで調査心理学の博士課程を修了した。彼は今日まで、ストレスがどのように人間の能力に影響を及ぼすのかを調べてきた。彼が最も関心を持ったのは、勝つこと、つまり相場で儲けることについての心理学だった。1982年、彼は儲けられる特性と損をしてしまう特性を、各トレーダーがどのくらい持っているかを評価する心理テストを作った。私を含む大勢の投資家や投機家は、筆記と10分間の電話コンサルティングによるこのテストを行った。彼はそのコンサルティングの主題である「どのようにすれば儲けることができるのか」ということに関して5冊の本を書いた。彼は現在「株式と商品のテクニカル分析」の寄稿編集者であり、その他の金融関係の出版物にも多くの記事を書いている。また、テレビやラジオの金融に関する番組にはゲストとして度々登場している。
彼は現在、カリフォルニアのグレンデールにある彼のオフィスで、多くのトレーダーをカウンセリングしながら、どのようにすればトレードで成功できるかという研究を続けている。この研究により分かった注目すべき事実は、トップ・トレーダーたちをインタビューしたり調査することによって、「成功するためのモデル」を作り上げることができるということである。彼の基本的な考え方は具体的なトレードの方法論ではなく、トップ・トレーダーたちの持っている「儲けることができる特性」を教授することによって、あまり優秀でないトレーダーや投資家の成績を向上させることができるというものである。
また最近のプロジェクトでは、2日間のクラスを2回行うという標準的なプログラムのあと、半年に1回のインターバルを置いてクラスを継続することにより、成績のよいトレーダーをさらに「スーパー・トレーダー」にしようという試みを行っている。