あらすじ
香港在住の元・ウォール街のファンドマネージャー工藤秋生は、香港の銀行口座開設の手助けなど、脱税を目的とした、もぐりのコンサルタント業をしていた。ある日、日本の知人からの紹介で工藤を美しい一人の女・若林麗子が訪ねる。「じつは5億円を日本から海外に送金し、それを損金として処理したいのです」 工藤に求められたスキーム、それは完全に脱税の指南だった・・・。そして4ヶ月後、麗子は消えた。5億ではなく50億の金とともに。麗子はどこへ消えたのか? 金融のことを何も知らないはずの麗子が、50億もの金をどうやってあとかたもなく消し去ることができたのか? そして、そもそも麗子が話を持ち込んだ「5億の金」とは、どんなファンドだったのか? 金融を知り尽くした新人作家による、驚天動地の脱税小説にして、必読の金融情報小説!
目次
第1章 香港、夏
第2章 東京、秋
第3章 ハッピー・クリスマス
ヴィクトリア湾に沿って香港島を東西に走る地下鉄・港島線を中環駅で降り、皇后像廣場に通じる狭い階段を上ると、排気ガスと粉塵の混じった海風が吹きつけてくる。
破れかけたビーチパラソルを縁石に突き立て、大衆紙やエロ雑 誌を雑然と積み上げたニューススタンド。発泡スチロールの大きな箱に氷水をぶちまけ、さまざまな色の缶ジュースを浮かべた貧相な屋台。けたたましいクラクション。不愉快そうな人波。半ズボンにランニングシャツ姿の真っ黒に日焼けした売り子は、早くも弁当箱を広げ、ぶっかけ飯に食らいついている。
秋生はレイバンのサングラスで焼けるような日差しを遮ると、広場をざっと見渡した。周囲は天を突く高層ビル群。ヴィクトリア湾に浮かぶフェリーの汽笛。高級ブランドがずらりと並んだショーウインドウの前には、上半身裸で、片手にブリキ缶を持ち、舗道を這いずる両足のない乞食が一人。泥だらけの顔から涎を垂れ流し、水飲み鳥のようにヒョコヒョコと通行人に頭を下げている。
ぼけたような白墨色の空。黄色っぽく膨らんだ太陽。肌にまとわりつく強烈な湿気。周囲に林立するビル群の冷房機から吐き出される熱風で、午前中だというのに、じっとしているだけで体じゅうから汗が吹き出してくる。香港の夏は、世界中でも最悪の季節のひとつだ。
狭い広場にはふたつの人工池があり、中国本土から来たらしい観光客のグループがコロニアル風の立法會大縷をバックに記念写真を撮りあっている。近くの金融機関に勤めているのだろう、メタルフレームの眼鏡をかけ、ワイシャツの袖をまくった男たちがブリーフケースを抱えて小走りに公園を横切っていく。噴水のある人工池の傍らで、秋生の目指す相手はすぐに見つかった。
小太りで頭の禿げかかった五十歳過ぎの男と、鼈甲の派手な眼鏡をかけたでっぷりと太った女。男は黒のショルダーバッグを幼稚園児のように肩から斜めにかけ、タオルでしきりに首筋の汗をぬぐっている。不安そうな目であたりを見回しているが、右手は鞄の上に置かれたままだ。「大事なものがこの中に入っています」と大声で叫んでいるような格好だが、平日昼間のセントラルなら、よほど運の悪い奴でもないかぎり、舗道の真ん中で現金を数えていても襲われることはない。在りし日の大英帝国がアジア支配の橋頭堡として育てたセントラルは、今やウォール街やシティと並ぶ世界有数の金融街だ。
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