戦後の商品先物市場で人気を集めたのは「赤いダイヤ」の小豆でした。東京、大阪、名古屋、神戸、関門、北海道の6取引所に上場され、プロとアマが一緒になって小豆相場の一高一低に一喜一憂したものです。「たかが小豆、されど小豆」。戦前の先物市場で人気の中心であったコメの代用品として登場した小豆が大化けしました。小豆の弟分・大手亡豆は需給量の少ないミニチュア商品のためしばしば買い占め・売り崩しの対象とされました。文字通り「大手を亡ぼす豆」と恐れられました。
小豆・大手亡の穀物市場では草創期から仕手戦が展開されました。山種、𠮷川太兵衛、柴源一郎らが主役を演じ、昭和30年代に入ると、伊藤忠雄、小川文夫らが前面に出てきて取引の最終決済の直前になると東海道を小豆を満載したトラックが数珠つなぎになると言った伝説が生れます。「静岡筋」栗田嘉記や「桑名筋」板崎喜内人、山昭・山憲コンビなど混戦となり市場をわかせました。
糸へんも賑わいました。生糸・乾繭市場では伊藤忠商事など大手商社や「まむしの本忠」本田忠、天才技術者・寺町博らが大きな建玉を張ったため取引所は市場管理に追われました。綿糸では近藤紡・近藤信男、西山九二三、市橋市太郎ら実需筋が相場の主導権を握りました。毛糸は林紡・林茂、五十棲宗一らが舞台に立つと取り組みが大きく膨らんで名古屋繊維取引所の出来高が東穀を上回ることもありました。人絹糸は「糸将軍」川村佐助が市場の主役で場違い筋からも人気がありました。川村の信条は「足るを知る」で山種の「腹八分」と同じ意味です。ゴムには丸紅など大手商社が登場、プロの相場師も交えダイナミックな相場展開でその相場は国際指標とされました。山文産業の亀井定夫はゴムで大勝利を収め、「私はこうして商品相場で儲けた」を出版、話題を呼びました。
大垣の大石吉六は「罫線を破れ。燃やしてしまえ」といい、横浜の角田純一は「すべては罫線の中にある」と宣う。今は一相場終わった後の小休止の時間帯、再び動き出す商品先物相場に勝利するためには先人たちがどんな信念を持って、どう闘ったかを知っておきたいものです。相場道場は人生道場そのものです。相場に強くなることは人生に強くなることでもあります。大阪穀物取引所の初代理事長を務めた岡弥蔵は相場をやらなきゃ生きている価値がないとまで言っています。
戦後の商品先物市場の賑わいをグラフ化すると平成15年が分水嶺を成しています。昭和25年のスタートから半世紀は右肩上がりできましたが最近の15年間は「不招請勧誘の禁止」という思いもよらぬ勧誘規制の導入で大きく落ち込んでいます。歴史的に見れば、余りにも先を急いだ反動で、一つの調整局面とみればいいでしょう。自由な経済体制が続く限り商品先物市場は不滅です。
【西日本編 (大阪・神戸・下関・福岡)】 〈五十音順〉
石田 庄吉 「投機師の血」流れる
板崎 喜内人 第一次狂乱物価時の寵児
市橋 市太郎 売り主体の相場名人
伊藤 忠雄 陽動作戦で市場を幻惑
上野 清作 砂糖界のキリン児
岡 弥蔵 理事長みずから手を振る
岡本 安治郎 風雲児・倉沢増吉の命の恩人
岡本 昭 日本一の電話屋は体育会系
小田 萬蔵 青年生糸王、神戸生糸の初代理事長
佐伯 義明 50歳からもうけ出す
鈴木 恭治 生糸相場でもうけ、製糖会社作る
多々良 松郎 危機一髪で助かる
中井 幸太郎 日曜日も朝から罫線にらむ
西田 三郎 曲がり屋の父に向かった日も
西山 九二三 戦後三品市場の風雲児
本田 忠 「マムシの本忠」と恐れられた
三木 瀧蔵 繊維相場で特有の両建て作戦
【中部編 (名古屋・豊橋・福井)】 〈五十音順〉
五十棲 宗一 毛糸相場で再三大勝負
大石 吉六 罫線を燃やせ、人間を作れ
岡地 貞一 大相場師「田貞」の血流れる
岡地 中道 「田貞」の孫、3代目は早大出
小川 文夫 東海道に砂利トラ、数百台走らす
近藤 信男 引かれ腰強い売り将軍
土井 賢一 東大野球部主将から相場師
林 茂 「一宮からす」と呼ばれた林紡
三輪 常次郎 相場の敵は相場で取る
安田 甫 大学時代から相場に親しむ
あとがき
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